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東京スカイツリーと東京大空襲  その3 [その他]

火の手がおさまり、祖母と子供達そして祖父は再び会うことができました。

家族全員が一緒にあの空襲を生き延びられたことは奇跡だと祖母は言っていました。
祖父は子供たちの顔に手ぬぐいを下げて前が見え無ようにしました。
子供たちは大八車につかまって下を向いて祖父たちについて行ったそうです。

母は気になって手ぬぐいの隙間から少し周りを見てみたそうです。
するとそこには黒こげになった人らしきものが倒れていたということでした。

タンパク質が焦げるにおいの中を、母たちはとにかく歩きました。

祖父の姉が住んでいる鵠沼まで、逃げて行ったのです。

母には弟がいて当時小学校一年生くらいだったということです。
その子はこのあと数日のあいだ、夜寝ているときにうなされて飛び起きたそうです。

『母ちゃん言うこと聞くから俺もつれてって!』

寝言でそう叫んでいたそうです。
よほど怖かったのでしょう。
叔父は四人兄弟の末っ子でやっと授かった男の子でした。
なのでかなり大切にされ、かわいがられていたのですが・・・・・
それでも、自分がおいて行かれてしまうかもしれないと思うほど、
過酷な状態だったのでしょう。

母については、空襲の後にそういったことはなかったと言います。

ただ半世紀以上たったある日のことです。

家の近所で火事がありました。
母はその日を見ながら何度も

『消防車は呼んだの?火事なの?』

と聞いていました。

夢遊病か何かのようで・・・私たち娘は
『お母さんぼけちゃったのかしら。』と不安になりました。
とにかくしっかり者の母なので、非常時にこんなにぼんやりしていることは
考えられなかったのです。
母も火事の間のことはぼんやりと霧がかかったようでよく覚えていないと言っていました。


数日後、母が叔母にそのことを話したところ、叔母がこういったそうです。

『あなたそれ、空襲の時の影響じゃないの?』

おそらく、これがPTSDというものなのでしょう。
子供のころに受けた心の傷が、半世紀もたっていい加減おばあさんになった
母の心の中に潜んでいたのです。

空襲の悲惨さから心を守るために記憶を封じ込めたのだと思います。
母は、空襲の時の事を、叔母たちよりもはっきり覚えていないと言っていました。
それは、たぶん彼女が十歳だったからだけではなかったのだと思います。

この記事に書いたことは、私が母や祖母に聞いたことをあまり飾らずに書きました。
なので、ぼそぼそと切れていて読みにくいことと思います。すみません。

また、話の中には祖母がまだ生きていたころ、私が小学生の時に聞いた話もありますので
私の家族が読んだら、これは違うというかもしれません。

この数年で、叔父や叔母がなくなりその話をできる人が十年後にどのくらい残っているかわからない
と思った時に、一度何らかの形で書いておきたいと思い記事に致しました。

私の手には負えない記事ではありましたが、皆さんに何かを感じて頂けたら幸いです。


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